前回、「動いている庭」の話から、
「障がいのある人と共に創る新しい表現活動」という、
おとあそび工房の説明の話を書きました。
「障がいのある人と共に創る新しい表現活動」という、
おとあそび工房の説明の話を書きました。
今回は、非常に個人的な印象だが、
「障がい者の人と」という言葉を持って、
アート(という言い方が好きではないが)
活動をしている団体も耳にするようになってきた。
「障がい者の人と」という言葉を持って、
アート(という言い方が好きではないが)
活動をしている団体も耳にするようになってきた。
しかし、「障がい者の持っている力は素晴らしい」
「頑張ってこんなことができました」
という賛美や、
障がい者と言われていない人によって加工されたもの、
ひどい言い方をすると、
障がい者に関わっている人達の善意の表現
といったものが多い気がする。
(勿論、そうではないものもあります)
ダンスでも、私が見た限りでは、
同じ舞台で触れ合ったり、からんだりしているにもかかわらず、
障がい者とダンサーが、
それぞれの思いで、それぞれに動いている。
そういう印象のものがほとんどであった。
同じ舞台で触れ合ったり、からんだりしているにもかかわらず、
障がい者とダンサーが、
それぞれの思いで、それぞれに動いている。
そういう印象のものがほとんどであった。
おとあそび工房で私が見たのは、
本当に障がいのある人と“共に”であった。
本当に障がいのある人と“共に”であった。
一緒に音を出したり、動いたりしているだけでは、
自分の都合でしかできない。
同じ場に居て、遺書にやっていても、
一人一人がバラバラにやりたいことをやっているに過ぎない。
いくら技術的に優れたことをしていても、
「すごいね」というだけで、終わってしまう。
(写真撮影:中島諒)