前回、「観察」について、
流れをつくるためには必要だと思うが、
その流れの中で「観察」の結果に固執すると、
流れの変化について行けなくなると書いた。
流れをつくるためには必要だと思うが、
その流れの中で「観察」の結果に固執すると、
流れの変化について行けなくなると書いた。
福祉の立場でも、これは同じことだと思う。
繰り返すが、「観察」が不要だと思っているのではない。
特定の個人の“ある状況”での決まった反応・行動・嗜好に対して、
「観察」することで対応策があらかじめ用意できる。
繰り返すが、「観察」が不要だと思っているのではない。
特定の個人の“ある状況”での決まった反応・行動・嗜好に対して、
「観察」することで対応策があらかじめ用意できる。
また、その場で働いている人達全体の共通認識として、
こういう状況でこのような行動をよくするので、
こう対応して下さい。
という規範ができる。
こういう状況でこのような行動をよくするので、
こう対応して下さい。
という規範ができる。
余り「観察」できていない人でも、
それを知っていると、安心して仕事ができ、
職場全体としては上手く行く。
解決することも多いだろう。
それを知っていると、安心して仕事ができ、
職場全体としては上手く行く。
解決することも多いだろう。
しかし、「観察」で分かるのは、
あくまでもマニュアルとして。
起こったことに対しての対応はしているが、
その個人に対しての対応はしていない。
あくまでもマニュアルとして。
起こったことに対しての対応はしているが、
その個人に対しての対応はしていない。
それが分かるのは、力が入っているかどうか。
(本人の自覚はないことの方が多いが)
(本人の自覚はないことの方が多いが)
力が要るのは、相手が抵抗を示しているからで、
抵抗がかかるのは、望んでいないから。
結果は望んでいても、経過が気に入らない(無意識に)。
抵抗がかかるのは、望んでいないから。
結果は望んでいても、経過が気に入らない(無意識に)。
同じ人が同じ結果を望んでいても、
その日、その時、その瞬間によって、
生理的、精神的、肉体的に、違う身体になっている。
また、環境や相手によっても変わる。
その日、その時、その瞬間によって、
生理的、精神的、肉体的に、違う身体になっている。
また、環境や相手によっても変わる。
全く違う結果を望んでいる場合でも、
妥協してしまうこともあり、
気も使っている。
妥協してしまうこともあり、
気も使っている。
だから、大きな問題はそうそう生じてこない。
すると、それが正解だと思えてしまう。
ただ、問題は余り起こさずに進んで行ける。
順調に仕事を進めることができる。
すると、それが正解だと思えてしまう。
ただ、問題は余り起こさずに進んで行ける。
順調に仕事を進めることができる。
結果良しとして問題の対処はしているが、
そこに、人と人との関わり・交流はない。
そこに、人と人との関わり・交流はない。
(今回は、文章との関わりなく、ワークショップでの写真を使用致しました)