仕事から見ると“あそぶ”は、注意力散漫だが、
“あそぶ”方を中心に考えると、また話が違ってくる。
それは、非常に集中しいている状態。
あそんでいると、注意されてもなかなか気付かない。
こどもに「ごはんよ!」と呼んでも、
あそんでいると、何度も呼ばなければならない。
“あそび”に集中しているから、
怒られていても、“あそび”が納得するまで止まらない。
なぜ、そんなに集中できるのか?
目的がないからである。
人に評価されなくても、大人が無駄に思うことでも、
何かが変わる、何かを得ようという欲もない。
後から考えると、「楽しいから」という理由が付くだろうが、
“あそぶ”行為の最中は、“楽しい”もなく、
ただ、そこに没頭し、集中している。
対象に向き合っている。
あえて考えるという思考はない。
工夫はしているが、
どうしたら効率的か、もっと楽しめるかと、
“企てる”という考えはない。
次々と思いつくことが行動としてでてくる。
それがとんでもないものが出来上がっていたり、
ビックリするようなことをしていたりする。
あてがわれた遊び道具では、
全てではないだろうが、
そういったことがなかなか起こってこない。
ただ、“あそぶ”ということが、
自分でも分からない自分の能力を、
活き活きした生命力を、引き出している。
大人は、社会的なルールや、効率、成果を考え、
ただ“あそぶ”ということができない。
時間の誓約はあるものの、
ただ“あそぶ”ことができるおとあそび工房は、
芸術、福祉的意味だけではなく、
ただ“あそぶ”ことを忘れた大人にとっても、
非常に大きな刺激となっている。
(撮影:中島諒)